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2014.07.13【STAR+LINE vol.3】岩田卓也 「夢はいつか叶うと知った」(前編)

STAR+LINE vol.3 岩田卓也

 

ブラジルワールドカップも決勝を残すのみとなりました。あと少しで寝不足の日々が終わると思うと少し寂しい気がします。“国“のワールドカップは4年後を待たなければいけませんが、もう一つのワールドカップ、”クラブ“ワールドカップは今年も12月に開催されます。そのクラブワールドカップで、3大会連続出場をめざす岐阜ゆかりの選手がいることをご存知でしょうか。

オークランド・シティ(ニュージーランド)に所属する岩田卓也選手。岐阜工業高校では先日引退を発表した片桐淳至さんや荻晃太選手(現ヴァンフォーレ甲府)らとともにプレー、2006年からはFC岐阜、FC岐阜SECONDに所属した選手です。2010年にオーストラリアに渡り、2012、2013年のクラブワールドカップにオークランド・シティの一員として出場し注目を集めました。2大会連続での出場は日本人初のこと。

日本では無名の選手だった岩田選手は、いかにして世界最高峰の舞台にたどり着いたのか。
一時帰国中の岩田選手に、3度目となる夢舞台への挑戦について話を伺いました。

***

この日、岩田はFC岐阜SECOND時代の先輩である西元広が代表を務めるフットボールクラブ「ラセルバ」のスペシャルゲストコーチとして、幼稚園で子どもたちにサッカーの指導を行っていた。終始笑顔を絶やさず、「子どもと一緒に楽しんじゃうんですよね、それが良いか悪いかは分からないんですけど」と楽しそうに子どもたちとグラウンドを走り回っていた。

岩田卓也
岩田がサッカーを始めたのは8歳の時。愛知県大会で優勝するなど、本人曰く「小学校はけっこうピーク」だったそうだ。中学、高校は岐阜でプレーし、当時長谷川健太が監督を務めていた浜松大学に進学。大学卒業後の2006年にJリーグ昇格をめざしていたFC岐阜に入団する。

当時のFC岐阜は、東海1部リーグながら、元日本代表の森山泰行や小島宏美を筆頭にJリーグ経験者を多数擁し、地域リーグでは圧倒的な強さを誇っていた。

「周り(の選手)がすごすぎて、練習でも試合でもミスが出来ないっていうプレッシャーが常にあった」
いつも笑顔で、先輩に可愛がられるキャラクターの岩田だが、それは裏を返せば言われやすいということでもある。大学を卒業したばかりの岩田にとって、経験豊富なベテランに練習などでミスを指摘され続けることは苦しかったと振り返る。

それでも、「Jリーガーになる」という小学校からの夢を叶えるため、岐阜でプレーを続けた。
「FC岐阜がJに上がった時(2008年)に、キャンプや練習試合に参加させてもらったり、トップにずっと帯同していたんですけど、契約には至らず。2年目ぐらいからはトップの練習参加もできなくなり、正直サッカーが楽しくないなって思っていた」

 

オーストラリアはターニングポイント
失った自信とサッカーを楽しむ気持ちを取り戻す

 

自信をなくし、好きなサッカーも楽しめなくなっていたFC岐阜SECOND在籍3年目、岩田は思い切った決断をする。

「映画が好きなので、英語の勉強をしがてら海外で趣味としてサッカーして引退しようかなと思って、27歳の誕生日を迎えた翌日にとりあえずオーストラリアに飛んだ」

さらりと話をするが、直接面識のない友だちの友だちを頼り、英語も全く話せず、宿も仕事もチームも決めずに海を渡ったその無謀とも思える行動力には驚かされる。

「グラウンドに行って、一緒に練習したいって言ったら、快く受け入れてくれた。自信をなくしていた自分に自信を取り戻させてくれたのが、ケアンズのエッジ・ヒル・ユナイテッドです。あのチームがもし僕にそんなに良くしてくれなかったら、今の自分もいないと思うし、もしかしたらもうサッカー諦めて日本に帰って来ていたかもしれない。言葉も分からない僕を良く受け入れてくれたなと。すごくありがたいですね」

オーストラリアのサッカーは日本ほどレベルが高くなかったこともあったが、日本で先輩に揉まれながらやってきたことで身についた技術が武器となり、岩田はチームの中心選手として活躍する。翌2011年シーズン、エッジ・ヒル・ユナイテッドはクインズランドで4つのタイトルを総なめし、岩田自身もその年のクラブ年間MVP(Player of the year)に選出された。

「小学校以来ですかね、あんなにサッカーが楽しいと思ったのは。オーストラリアは週2回しか練習がないんですけど、練習日の火曜日と木曜日が待ちきれなくて。早く練習の日にならないかなって。で、練習の日になったら「よっしゃ、練習だー」って行くような。そんな気持ちにさせてくれたのがそのチーム」

今でも、日本に帰国する際には必ず経由するというケアンズは、岩田にとって「人生を変えた」かけがえのない場所になった。

 

考えもしなかったクラブワールドカップへの挑戦

 

だが、その居心地のよいケアンズを、ビザの問題で離れなくてはならなくなる。そんな折、現地の日本人から「ニュージーランドに行って、クラブワールドカップに出そうなチームに入れば出られるんじゃないか」という話を聞く。最初は「クラブワールドカップは小学校のころからテレビで見ていた大会だから、考えもしなかった」と言うが、日本に帰る気持ちもなく、やるだけやってみようとニュージーランドへ行く決心をする。

一度決断してからの岩田の行動力は本当に驚かされる。
「オーストラリアに来た時のように、何も決めずにニュージーに行きました。一番大きな通りを空港の人に聞いて、そこでひたすら聞き込みです(笑)」唯一の手がかりは、「ニュージーランドではオークランド・シティとワイタケレというチームが強い」という情報のみ。サッカーをやっていそうな服を着た人に手当たり次第に声をかけて「サッカーやりたいんですけど、どこでやればいいですか?」と情報を集めた。

ニュージーランドに渡って3日後、オークランド・シティのチャンピオンリーグ決勝の試合があるのを知った岩田は、試合を見に行き、監督に「チームに入れてほしい」と直談判する。最初は断られたが、諦めきれずチームのスタッフと再度交渉した結果、下部組織のセントラル・ユナイテッド(ニュージーランド2部リーグ)の練習に参加できるようになる。

「本当にぼくもそんなことよくやったなって思います。英語もほとんど話せなかったし。普通は無理だろって。でも、引退覚悟で行ったから、突き進めたのかもしれない」練習参加後はすぐに入団が決まり、クラブワールドカップへの第一歩を踏み出すこととなる。

 

「目標にしたことがどんどん叶っていく。ミラクルです」

 

「運がよかった」と岩田はインタビュー中、何度も口にした。
「本当に運が良かったんです。セントラルでレギュラーになったのも左サイドバックの選手が怪我をしたからだし、オークランド・シティに入団出来たのも左サイドバックの選手が海外移籍したから。ミラクルです。奇跡が重なってオークランド・シティに入ることができた」

実は、オーストラリアに渡ってすぐ、岩田は一番の理解者である母を亡くしている。
「ある記者さんが“母の見えない力に導かれて”って書いてくれたことがあったんです。ニュージーランドに渡ってから目標にしていたことがどんどん叶っていく。サッカーを始めてからずっと母が一番サポートしてくれていたので、ひょっとして”見えない力”ってあるのかなって思って」

運や“見えない力”、そういった要素も奇跡の瞬間には必要だ。だが、決してそれだけではない。チャンスをつかむための行動力やそれまでの準備があってこそ、運ははじめて味方になる。

「母はよく笑う人でした。だから、僕もいつも、つらいときでも、笑っているようにしています。言葉がしゃべれなくても、笑顔っていうのは伝わるんだなって。笑顔でいたら相手は嫌な気持ちにならないだろうし、良くしてあげようって気持ちにもなるかもしれない」

インタビュー中ずっと笑顔を絶やさない岩田を見ていると、この笑顔と人から愛される性格こそが、母が残した“見えない力”の正体なのではと感じる。

 

正式にオークランド・シティへの入団が決まったのは、2012年10月の中頃。
その2ヶ月後、日本で開催されたクラブワールドカップの舞台に岩田は立っていた。

後編へつづく)

 

岩田卓也オフィシャルサイト:http://takuyaiwata.com
取材協力:フットボールクラブ「ラセルバ」

【STAR+LINE vol.3】岩田卓也 「夢はいつか叶うと知った」(後編)

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取材・文/STAR+編集部

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